「美少女」と「砂の女王」2020年02月24日


昨日のフェブラリーSは、モズアスコットの強い競馬でした。
府中の芝・ダート1600m(安田記念・フェブラリーS)のG1をものにしました。
ダート適性が不安で、▲評価だったのが恥ずかしい。
当然、2着馬無印の私は、馬券的に完全に玉砕でした。


レース後、ふと思い出したのは、アグネスデジタルやクロフネ、そしてホクトベガといった馬たちでした。
芝・ダートのG1(Jpn1含む)を制した馬は結構いますが、アグネスデジタルとクロフネは圧倒的な力の差で、他馬をねじ伏せていました。
アグネスデジタルも安田記念とフェブラリーSを快勝してますね。


そして、芝・ダートで活躍した名馬といえば、何と言ってもホクトベガでしょう。


岩手出身の私は、ホクトベガが3才(旧表記では4才)当時、同期のユキノビジン(岩手競馬出身)を応援してました。


旧盛岡競馬場で初めて会った時に、父サクラユタカオー譲りの綺麗な栗毛三白流星で、中央に移ってから「美少女」と言われる馬体に惚れました。
岩手では、4戦3勝で中央へと転厩します。(転厩は計画済)
まだか細い少女が、中央のクラッシック戦線に殴り込んで快勝した、転厩初戦のクロッカスSは忘れられません。


迎えた桜花賞・優駿牝馬は共に2着、クラッシックで勝利することはできませんでした。


秋初戦のクイーンSは圧勝したものの、G1エリザベス女王杯は3番人気10着と惨敗。
そして、この時勝ったのが「ベガはベガでもホクトベガぁ~」の実況と共に、ホクトベガが初G1タイトルを手中に納めました。
ユキノビジンは、次走ターコイズSでホクトベガを敗り溜飲を下げますが、その後骨折してしまい、ターフに戻ってくることはありませんでした。


ホクトベガは、ターフではなくダートに戻ってきました。
最初のダート戦は、惨敗しますが、それから芝とダートそれぞれのレースに出走し、圧倒的に勝率が良かったのがダート戦でした。
当時、中央地方交流競走が盛んになってきた時期、1996年のフェブラリーSを含むダート交流重賞7連勝は圧巻で、「砂の女王」と言われました。


その7連勝の最後が、盛岡競馬場の「マイルチャンピオンシップ南部杯(Jpn1)」でした。
ユキノビジンが去ってから建設された新しい盛岡競馬場で行われました。
ユキノビジンが走ることができなかった新盛岡競馬場オーロパークに、ホクトベガが入って来たときは、鳥肌がたちました。
レースが始まった後も、ずっとユキノビジンが一緒に走っているような感覚が続きました。
そして、最後の直線をホクトベガが抜けて来たときには、他馬は見えず、ホクトベガとユキノビジンが駆け抜けていくシーンが見えました。


ホクトベガは、ドバイワールドカップに参戦し、帰らぬ馬となってしまいましたが、今でも私の記憶に鮮明に残っている名牝です。


とはいえ、同期の中で一番の名牝は、桜花賞・優駿牝馬を勝ち、アドマイヤベガ、アドマイヤドンなどを輩出したベガですよね。
知ってますとも…。